ごめんねハイデッガー

ハイデガーが読み勧められないので、他の本を先に読みます

エモ

 ここ最近、叫んだ記憶が無い。いや、人生で何かを叫んだ事があるだろうか。剣道の試合で大声を出したり、電話越しに罵詈雑言を吐いたり、職務質問をしかけてきたおまわりさんと喧嘩したりしたけれど、絶叫と言うのは人生に存在しただろうか。

 エネルギーの放出としての絶叫では無い。感情の放出としての絶叫。みなさんの人生には存在しましたか?僕の人生にはそのような若くて青々しいエモい1コマは存在しませんでした。別のエモさならあります。

 

 映画や舞台の芝居に於けるエモさについて考えたり喋ったりした日だった。

 エモい、と言うのはどういう事なんだろうか。ギャーギャー叫べば良いのか、それとも耐えて耐えて零す涙さえあればいいのか、無音で絶叫してる顔から大ロングへのカット変わりを指すのか、まぁ色々あんだろうな。でもエモさであるとか、熱演ってのは近似値ですら無いのかも知れない。

 

 「ヒミズ」と言うマンガかある。古谷実と言う漫画家が、ハイテンションなギャグを使わずに画いた作品だ。ここで出て来るエモさ、と言うのは静的で冷たくて鋭い。少なくとも僕はそう受け取る。

 それと言うのもこのマンガが映画化された時に、主演二人がとにかくギャアギャアと叫びまくっているので辟易してしまった。豪華脇役陣の支えで完成している様な映画なのだ。叫べば良いってもんじゃあないと思うんだが、映画館で流れる最近の映画の告知でも若者は叫ぶ。とにかく叫ぶ。感情を吐露する方法は、叫ぶしか無いのだろうか。

 

 役者が叫ぶ時、それはどこに向けられているのだろうか。演出次第なんだけれど、舞台上で完結する絶叫だったり、見ているものに向けられる絶叫だったりする。観客に向ける、と言うのはある種の信頼関係が必要なんだと思うし、だからこそどこまでも作品を解釈しようと思うんだ。

 それが好意的過ぎたり、穿ち過ぎたりしてるのはあるかも知れないけど、観劇って言うのは座組と観客のタイマンなのだ。

 殺陣だアクションだ絶叫だエモだ、と言うのが簡単だとは言わない。練習、努力が必要なのは当然なんだけど、役者に依存したブン投げた演技と言うのが絶叫系芝居なのかも知れない。

 それを受け取った観客は、その熱量にあてられて何かを得た気になってしまうかも知れない。そして脚本家は演出家が本来伝えたかった事とは別の物を持ち帰ってしまうかも知れない。それは本末転倒だ。だから舞台上で完結させねばならない、と言うのも分かる。

 

 でもなぁ、信頼されたいよな観客として。

 これはもしかしたら”観客としての存在”と言う話かも知れない。観客は幾ばくかの銭を払い、時間を使い、労力を費やし、舞台を見る。双方向のエネルギー摩擦として、そこに存在していたいと言う事なのかも知れない。

 観客がいて、舞台があって、芝居が完成する。では観客のいない劇場で上演されるシュレーディンガーの舞台は成立し得るのか。繰り返されてきた芝居や実験の結果としてのそれならば、僕らの感情はどうやってアウトプットすべきなのだろうか。

 

 反響する絶叫。疑似青春のリフレイン。僕たちはドラッグを打ち続けるのか、それとも信頼される観客として舞台と取り組むのか。明日は、どっちだ。