ごめんねハイデッガー

ハイデガーが読み勧められないので、他の本を先に読みます

俗 観劇記録02 有末剛緊縛夜話第十六夜 「泡雪屋散楽譚」の話

 

「別に全員がセックスをする訳じゃないよ」

カイザー跡をなぞる俺の指をどけて、女は言った。

「雨が降って現場が無くなったーって寝ちゃうだけの人もいる」

「お寿司の出前取って食べるだけのお爺ちゃんとかもいるよ」

「あ、こっちも起きたね」

(「吉原の曇窓から」 温室いく著 民明書房出版)

 

 願い、と言うメッセージが色濃い舞台だった。

願いを叶える絵師(刺青の彫り師であろう)や、舞台の縄に下げられた鶴。

いや、コンドームですら願いの一つかも知れない。

彼女たちは男たちの願いだ。彼女たちの願いは、あの縄に下げられた鶴だろうか。

あの鶴は叶えたかった願いか、叶えられなかった願いか、

それとも別の誰かの色褪せてしまった願いか。

 

願いよ叶えいつの日か、そうなる様に生きて行け

 

 B'zの稲葉講師が俺をここまでキモい男にした、面会謝絶。

 

無能や白痴が許されないのは3人以上の集団の於いてのみである。

二人だけなら何とかなる。3人以上の集団に成った時、それは苛立ちを生む。

パワーバランスが崩れ、存在の順位が明確に成る。

自分の正義や手法、まぁ言ってしまえば自分の存在が特別であると信じたいから摩擦していく。

そう言う自己主張は鬱陶しく邪魔なんだが、それこそがリアルな感覚だ。

だからホラー映画やパニック映画はクソに腹を立てながら見る事が多い。

 

願い。願い。願い。

俺はお前の世界を信じない。

願い。願い。願い。

だから俺たちの関係は破綻するしかない。

俺もお前も特別じゃない。

 

にしてもにしても「特別な存在では無い」と言うある種の解脱感ある物語であったが、こう言うのっていつ頃からだろうか。ちょっと前までは「普通の存在が特別な存在になる」のがメインストリームだった。いや、いま流行りの異世界転生だってそうだと思うが、その「特別な存在である」事はおろか「特別な存在でありたい願い」すら叶えられないと言うのは凄い事だよな。

 

 

特別性の徹底的な否定。わかるよ、とても良く分かる。

そんな”特別性”の為に人間はダメになっただ。海外でも「世界にひとつだけの花」みたいなのあんのかな。堕落だよな。ありのまま、にも通じる一種の堕落だ。

 

そう。「世界にひとつだけの花」から「レリゴー」に至るまで、勇者や奇跡の存在ではない、そこら辺に転がっている所謂””普通の存在””に付与され続けた甘ったるい特別性が否定され始めたんだ、と思っている。特別だと思いたい願いが否定される。特別性を喪い、普通に戻った時にその存在は特別なのか?と言う話。

特別性が否定されたのだから普通の存在でしょ。アプリオリに生じるアドバンテージが特別性を意味する可能性は否定できないが、過去に得た結果がネガティブなものの場合はそのアプリオリが有用に働くかどうかは五分って感じだと思う。普通はそこで倍プッシュできるほど、特別性に賭けられない。

存在が根本から否定される現実を突きつけられた上で、再び特別性が提示された時に、より情熱的な態度でその可能性に賭けられる気はしない。

 

己の特別性に期待し過ぎたりせず、盲目にならず、過信せず、粋がらず、気取らず、自分を律しろ、望むな、特別性は幻想だ、お前がオリジナルである事に意味は無い、それはコピーだ、コピーが悪いとかでは無い、オリジナルと言う思い上がりは罪悪だ。

特別性なんてのは思い上がりだ。その思い上がりの許容は修行(自制心)の足りなさだとしか思えない。特別性を欠く存在の為にルールがあり、それに従って生きる者が特別性を夢見るんじゃない!と言うディストピア体制側マンが俺だ。

 

に於いても「特別性」はさほど重要では無い扱いになっている。存在は希薄になり、普通へと帰属していく。「世界にひとつだけの花」と言う解放は同時に脅迫でもあったのは明白で、この淡雪屋散楽譚と言う物語に於いて、特別性を喪失する事に対する緩和が見て取れる。

レリゴーをまだ!まだ見てないんだけど、あれが示す「ありのまま」と言うのは特別な存在でありつつ普通性(または対極てして普通の存在でありつつ特別性を)得ようとする美味しいとこ取りなんじゃねぇの?そらウケるわ!と予想している。見てみよう。ありのまま、それが怠惰な特別性である事は既に指摘されて久しい気もするが、とにかく特別性のムカつきったらない。

 

さらに言えば、言うに事欠いて「モブだって特別だよ」「道行く人も特別なのだ」などと言う偉そうな神視点どころか森羅万象視点みたいな事を言う奴がいる。そいつだってモブなのだが、どうしてかマウントしたがる。無意味だ。いいんだよ、特別じゃなくて。オンリーワンじゃなくていい。コピーでいい。嘘でもいい。大丈夫だ、安心してくれ。そう言う話たちだったと思う。

 

ただ「特別じゃねぇよお前」と言うだけの話じゃない。

 

「特別になる必要は無い」の補足として「普通の肯定」があるのは大事なんじゃないかな。「特別が特別であり続けない(普通に還る)」事で普通を受け入れ易くしてあげる。一番の泡姫だった女が家庭と言う普通に帰属して行く(それがまた別の「特別」であったとしてもその帰属は繰り返されていくのだろう)事が明確に描かれている。

「恋する乙女は諸葛孔明」と言う第九−4楽章の閃光は爆発となって世界を包み、特別と言う重荷からの解放を促す。プラスにせよマイナスにせよ「特別な存在になってしまった」「特別な存在にならなくてはならない」……と言った強迫観念からの解放、価値観の変換と言う意味での解脱がなされる。そうありたい、そうありたかった、どちらにせよその願いでもって彼女たちの世界は救われていく。

 

解脱。価値観の転換。

 

ただ「彼女は特別なのだ」と言う他者の介在がそれを阻んでしまう。一周するはずだった世界は途中で止まり、完全なる解脱は成し遂げられない。 さやかさん(これはまどマギ的な意味でワザとなのだろうか?)自身も「私は完成した存在では無い」事を自覚して述べているし、特別性を否定しようとしている。

まどマギでもそうだったし、特別な存在になってしまう事は個の喪失であり抽象的な概念になってしまうと言う事なんですよね。うしとらでもそうだった。存在の喪失ほど苦しいものは無い。共通するのは「特別な存在によって特別性を奪われて解脱する」と言う点ですね。これは興味深い。

浅学で馬鹿なのでそこらへんが何のメタファーかは分からない。

 

そして英雄は概念になる。

 

崇め奉られた存在は象徴としての神であって、つまり道具であるからしてそんなものは概念でも何でもない。概念として生きる孤独に耐え得る存在は絶対に確認できないので、そこは未知の領域だ、狂わずにいられるか。いや、概念である以上はもはや狂う事すら叶わない、自我も何も無いのだからそれはそれで安寧だよな。

これは年齢的なものもあるかも知れない。「10代で特別性に燃えない人間は情熱が足りんが、30代にもなって特別性を信じている人間は脳みそが足りん」的な。大人になると言うのはそう言う事でしょう、「少年性」「少女性」は特別な存在のみに許された特権的キモさでしかない。

 

続いて行くなんてのは苦痛だが、みんなはそれに耐えつつ生きてるじゃないか。ここで負けたら異質になってしまうので、バレないようにこっそり死ぬか、何とか取り繕って生きていく。みんなそうしているんだろ。

「お前だけは俺を」そんな事はありえない。「あなただけは私を」そんな事はありえない。錯覚だ、幻想だ、夢だ。目を覚ませ、水を飲め、深呼吸しろ、刮目しろ、さぁ!さぁ!!したり顔で「愛されたいのね」「そこまで語る自分の特別性を理解して欲しいのね」とか言うやつを片っ端から殺していってやる。シュリンクツイッター見てもらって「セックスが足りてないわね」と言われた方がまだマシだ。

 

誰が分かるかグリーンデイのバスケットケースみたいな歌の話!そう言う事してっから金払わないとセックスできねーんだよバァーカ!死ね!

 

金を払ってもセックスできない存在が稀に描かれる。ナメきられて誤魔化される。馬鹿だなぁ大衆店なんぞに行きやがって、あいつら腫れて痛いんだろうけどオッパイだって揉ませてくれねぇんだ、金を貯めて高級店に行けよゥ、ってデコ助野郎が言ってた。

「君の気持ちが分かる、と容易く誓える男(女)に、なぜ女(男) は付いて行くのだろう?そして泣くのだろう?」理解と言う幻影や幻想は厄介だ。それが愛や憎しみを生む。それは理解なんかじゃない、都合の良い誤解をされただけだ。信じちゃいけない。

 

俺は俺の事をかなりの高確率で良い方向に誤解してくれる奴を何人か知ってるし、たぶん俺も奴らの事をそこそこの高確率で良い方に誤解してる。それは理解じゃない。オッズの良い馬を複勝で買うようなもんだ。理解なんてものを渇望するなんて馬鹿馬鹿しい。共感もだ。誤解の近似値を近付けて喜んでやがる、懐疑的にならない怠惰さ。あぁくそ、その怠惰さが含む甘美な堕落!淫らに落ちぶれていきたい!

 

 

俺は狂ってなんかいない。

毎日こうして出勤しているんだ、狂っているはずがない。

 普通。それでいいんです。誤差範囲内で安寧に生きましょう。

 

特別な存在でありながら、普通に憧れ続けた存在として好きなのはグレンラガンのヴィラルです。「俺も……甘い夢を見たものだな……」は涙腺崩壊必至です。俺も甘い夢を何度も見ては、自分で埋めてきました。夜毎開く夢にも嵐、サヨナラだけが人生だ。