ごめんねハイデッガー

ハイデガーが読み勧められないので、他の本を先に読みます

テレビジョン

おっぱいとは乳首の事だ。乳首なしにおっぱいは成立しない。

それがどんなに豊かであれ貧しくあれ、乳首が重要なのだ。

乳首さえ映らなければテレビはおっぱいと認識しない。

おっぱいとは乳首の事であり、乳首こそがおっぱいなのだ。

 

おっぱいを見たい。でも誰のおっぱいでも良い訳じゃない。

お前のおっぱいだ、と言う事こそが重要なのであって大小は問題じゃない。

 

 

 

だから茶沢さん、おっぱい見せて。

 

 

 

 

いつだか「笑ってはいけない」シリーズのどれかで、マツコデラックスが「ねぇ、私たちは本当にこのままでいいと思う?あと10年後にテレビは残っていると思う?」と言う質問をした。メンバーは曖昧に笑うだけだったし、テレビ側がこのシーンを生きにした理由もよく分からない。

テレビはかつて、漫画やアニメ、インターネット文化を馬鹿にした。徹底的に馬鹿にしてきたし、それは今でも大差ない。単に金になるから、下卑た笑みを浮かべて迎合しようとしてるだけだ。現に、何か事件があればゲームだ漫画だと言うコメンテーターを器用するし、まぁそうやれば世間の溜飲を下げられると思ってる。

インターネットは怖くないんだろ、基本的に。物理攻撃される訳でもないし、炎上したって別に何がどうって訳でもない。地球は回るし、仕事は仕事だ。視聴率にどんな影響がある訳でもないのかも知れない。

それでも若者たちは労働をして、帰ってきて見るテレビ番組はゴールデンと呼ばれる時間に進出していき、どんどんテレビを見なくなる。もう、誰もその時間にテレビの前に座っていられないのだ。

 

インターネットでテレビ番組を見ることがある。

 

松本人志の「ドキュメンタル」シリーズが少し面白かった。彼は何か制限がある中でこそ面白さがあると言う哲学の人間なんだろうか。今回も「笑ってはいけない」と言うルールで持ち寄った100万円をラストスタンドの勝者が総取りする。シビアであればシビアである程、ピリッとするしそれを見ている者は面白い、そう考えているのかも知れない。実際にドキュメンタルシリーズは割と面白いし、それは松本人志がやりたい事をやれているから何だろうな、と思う。

誰が笑っただの笑ってないだのと言う曖昧で細かい部分はさて置き、参加している芸人たちも本気だし、その必死さと言うのは滑稽で、見ていて面白い。必死さは滑稽だよな、それが蚊帳の外であれば尚更面白い。

 

 

「戦闘車」と言うインターネットで見られる番組がある。ダウンタウン浜田雅功千原ジュニアの番組で、かつてのバラエティを彷彿とさせる金のかかった豪華な番組で、それはテレビ局が「あの頃」を懐かしんでいるかの様に思える。そしてそれは僕に取ってはつまらない番組だった。個人の所有する車を破壊する事も、いや車を無目的に破壊する事はもう面白い事ではないし、それに無自覚な様に思える。それはもう現代が求めるバラエティじゃないんだろうにな、と言う思いがある。

テレビ局はやりたい事をやれなくなった。イジメにつながる、下品だ、そんな声に押し潰されてどんどんと笑わせる手段を失っていった。テレビで見た暴力を子供が真似するのはテレビのせいじゃない。教育のせいだ。それでもテレビが自粛する事で世間は納得した。そうやってどんどん縮小していった。

 

テレビから暴力が消えた。

おっぱいが消えた。

雛壇に座った芸人達は、かつて馬鹿にしたインターネット動画を見てコメントをする。

テレビ局はさんざん馬鹿にしたアニメで芸人に喋らせる。

番組はインターネットで売られていくようになった。

 

これからテレビがどうなって行くのかは知らないし、おっぱいや暴力がどうなるのかも知らない。テレビ局はこれからもずっとアニメや漫画を馬鹿にするんだろうし、輝いていたあの頃を忘れられるはずもなく、どうして良いかもわからないまま死んでいくのかも知れない。

これからインターネットがどうなっていくのかも知らないし、エロやヘイトみたいに何かが規制されたって何もおかしくない。既にインターネットはインフラで、望む者がアクセスする物じゃない。公共の空間みたいなもので、きっと規制されていくんだろう。そのゾーニングが正しいか間違っているかは、後になってみないとわからない。

 

僕自身、テレビ番組に何を求めているかはわからない。

でもエロ……と言うかおっぱいが消えた今、家族と見ていたテレビの前で乳首が出た瞬間に気まずい思いをしたり、動揺していないフリをする子供はいなくなったんだろうな。それはピースなのかも知れないし、ディストピアなのかも知れない。