ごめんねハイデッガー

ハイデガーが読み勧められないので、他の本を先に読みます

【午後のロードショー】『ミリオンダラーベイビー』を鑑賞しました

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最近はちょっぴりAmazonPrimeVideoに浮気してましたが、午後ローを見ていきましょう。今週はなんでも名作揃いだとか。

実は見てなかったこの映画は2018年3月5日放送。

ミリオンダラーベイビー(Miliion Dollar Baby)』2004年アメリカ。

クリント・イーストウッドが全部やりましたシリーズ。

 

神になりたいイーストウッド、ここから2008年の「グラン・トリノ」に繋がっていって、ついに神になる。死にたがり北野武みたいだなぁ。いやそれ以前に、彼らの世代が若い世代に何を伝えられるかって話をしし続けている。これは女性、グラン・トリノは人種も違う少年。クリント・イーストウッドの絶望とはこれ如何に。いや、視野が広がったのかも知れない。白いボーイの話はもうおしまいだ。そういう事かもな。

 

冒頭に「神とはどんな存在なのか知らない、その無知さ加減」と言うのを出している。老年になってそういう事を考え始めると言うものかのか、元より敬虔であったのかも知れない。神に近く為には知らなければならない、今まで知っていたと思う事を手放さないといけない。そういう事なのかも知れない。

罪の意識からミサにで続け、神の存在について考え続ける。神の問題じゃない、これは俺の問題だと言うのは決して神を超越しようとする事では無く、「誰かの神さま」になる事の希望とか絶望みたいな話なんだろう。イーストウッド翁ほどの人物がそうなりたいと思う、いやそのレベルの人物だからこそそう思うのかも知れない。それは深い深い孤独なのか、本質を知ってもらいたいと言う極彩色の欲望なのか。そういう話なのかも知れない。

 

偏屈で面倒クセェ老人と言うのは自己分析なのか、それともアメリカの白人と言うものの話をしているのかわからない。アメリカの白人は友達を作るのは下手くそなのかな。そうかも知れない。それは孤独と言うものなのかな。少女は父性を満たして行くのも、醜くて綺麗な話だ。ここでレモンパイを美味しそうに食べるイーストウッド翁はすごく可愛らしい。

 

アメリカ人がクソになてしまった、という感覚がイーストウッド翁の中にあるんだろうなぁ。グラン・トリノでもそうだったけど、何に責任を感じているんだろう。それはクリスチャンとしての罪の意識なのかな。家族を失うと言う感覚は強いんだろうなぁ。国家とか言うものの喪失を思い描いているのかも知れない。彼らが生きてきた世界や時代と言うものが終焉を迎えていくのは悲しいよな。きっと俺たちもそういう感覚に溺れながら死んでいくんだろう。最近の日本映画でそういうのはあんまり聞かないけど。

神になると言う苦痛に耐えきれずに失踪した今作、神になるために命を捨てたグラン・トリノ、その目的がどんなものであれ、否定はできないししたくない。救われるべきはイーストウッドなのかな、と考えてしまう。

 

チャンピオンになる、タイトルをとる、勝てない相手に勝つ、そういう話じゃないところなのが好感を持てる。別にロッキーを馬鹿にしてるんじゃないぜ。あれはあれで好きなんだ。