営業
掃除もせず、ハイデガーも読まず、午後のロードショーを見ていた。「バーティカルリミット」だ。ハイキング、登山ならまだしも雪山登山だとかフリークライミングだとかってのは、ちょっとどうかしてる人間の運動だと思う。後輩は普通の登山で稲妻が真横に走るのを見たと言っていた。狂った世界だ。
映画の中でニトログリセリンの扱いが雑になってきた。そんなタイミングで、呼び鈴を鳴らしてドアを叩く音がする。部屋では全裸マンの俺は驚きながらパンツを履く。誰だろう?ドアを開けると、久しぶりに見る顔がそこにあった。
梅雨明け前だと言うのに蝉の煩い、暑い日差しが目を焼くような日だった。
「よぉ、久しぶり。元気にしてたか」
フルネームと人づてに聞いた近況を思い出すのに数秒かかった。そいつは様子を伺った上で、再び口を開いた。
「いま、テレビの仕事してるんだって?調子はどうよ」
「ぼちぼちだよ。上がるか」
「いや、たまたま近くを通りかかってね」
「そうか。どうした、急に来たから驚いたぞ」
「そうだよな、いや、悪い悪い。そう、俺、仕事再開したんだ。それで今、缶コーヒーを売ってるんだけど、ちょっと話だけでも聞いてくれよ」
「缶コーヒーだ?何だ、営業かよ。まぁいい、話してみ」
話をしてみろ、の合図で前のめりになる。
「いやな、ちょっと割高のやつなんだけど、これが旨いんだよ。香料を使ってねぇ、保存料も一切無しだ。どこぞの広告で”原材料、コーヒー。以上”ってあったろ?あれみたいな話なんだけど、これが本当に旨いんだよ。飲んだ瞬間に舌にスパァン!って味が伝わって、香りが鼻腔の奥まで広がる。コーヒー飲んで目が覚める、とかじゃなくて心が、脳味噌が開く感じがするんだよ。俺も初めて飲んだ時はビックリした。変な薬でも入ってるんじゃねぇかと思ったくらいだ。それくらい旨い。どうだ、買ってみてくれねぇか」
「そこまで言うなら考えたいが、一本いくらよ」
「1250円」
「は?1250円?缶コーヒー、一本で?」
「そうなんだよ、味が落ちないように缶にもパッキングにも工夫してるからそれくらいかかっちまうんだ。俺も頑張って豆の厳選したんだ、このロット。良かったらでいい、是非買ってくれ。そんで、飲んで旨かったらSNSで拡散してくれ」
蝉がひときわ大きく鳴き声をあげた気がした。
「財布、とってくるよ」
汗がひと雫、頬を伝って落ちて行った。
「よぉ。久しぶり。元気してたか?俺、仕事再開したんだ。今さ、この水売ってるんだ。1000円だよ。缶は大手メーカーが作ってて、プルタブの作りもこだわってるんだ。”量子力学に基づいて元素からしっかしと考えました。ビタミン、ミネラルを豊富に含んだ硬水と軟水をブレンド。舌にしっかりと残る水素の味わいを是非楽しんで下さい”よかったら、買ってよ」
男はまくし立てる様に言った。俺は事態が飲み込めない。「え?」と聞き返すと、男は更に別の販売スケジュールを言い出した。
「再来月の話なんだけど、今度は月半ばから白湯を売り出すんだ。こっちも凄い人達が集まって作ってて、暖めても元素が壊れない様になってるんだ。こっちは缶のデザインが凝ってるから2500円なんだけど良かったら予約するから言ってくれ。年末にはコーヒーも売り出す。こっちは値段も未定なんだけど、興味があったらLINEしてくれたら予約いれておくよ」
「待て待て、悪い、話が飲み込めねぇ。何だって?水が1000円?そのサイズで?」
「そう、缶のデザインにもこだわったんだ、見てても楽しめる」
「そうじゃねぇって、その水が何なのかもわからねぇし……あー、悪い。ちょっともう時間がねぇや」
ドアが閉じられた。汗が染みるように皮膚から這い出た。